東京理科大学報 第153号(2004年07月07日号)

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乾電池の発明者は日本人だった 理大ゆかりの屋井先蔵

テレビ番組制作会社(株)コスモ・スペース プロデューサー 田中 敦子

宮中茶話会出席で正装した屋井先蔵

13歳で単身徒歩上京

維新前夜の文久三年(一八六三)、屋井先蔵は越後(新潟県)長岡藩の下級武士の子として長岡に生まれた。幼くして父を亡くし、母や姉と共に親戚に身を寄せて暮らした。十三歳になった時、先蔵は一大決意をする。東京へ出て技術を身に付け、家名を興すことだった。反対する叔父を説き伏せ、九日間歩き通して東京へ出た。そして神田の大きな時計店で丁稚として働くことになる。「時計」は、まさに文明開花のシンボルだった。この時代の最先端を行く機械に魅せられた先蔵だったが、残念なことに病に倒れ、一年半後には故郷へ帰る。大きな夢を描いて出てきた少年には辛い出来事だった。

ふるさと長岡に戻った先蔵は、母の手厚い看護を受けて快復し、長岡の豪商「絹五」で働くことになる。「絹五」は、戊辰戦争(一八六八~九)の折には官軍の本陣となり、西園寺公望が逗留していたという立派な構えの商家だった。「絹五」の主人は、新潟県村上のお茶を横浜や東京築地の居留地の外国商人に売りさばき、彼らから時計を買い求めて帰った。銀座に服部時計店が出店する以前、明治七年(一八七四)に長岡には既に時計店があったのである。先蔵は、この「絹五」で修理工として七年の年季奉公をする。しかし修理の仕事では飽き足らず、先蔵は"永久機関"を作ろうと思い立つが、基礎がないため失敗を繰り返す。そして「やはり東京へ出て勉強し、機械の世界に進もう!」と再度心に誓った。

再び東京へ出た先蔵は、郷土出身の代議士の家に書生として住み込み、夜間は明治十四年(一八八一)に誕生して間もない東京物理学校(現・東京理科大学)に通う。同校は誰でも入学できる代わり、進級が難しかった。先蔵は、物理学校に身を置きつつ、職工学校(現・東工大)を受験したが失敗。更に一年猛勉強を重ね挑戦しようとしたが、五分の遅刻で受験できなかった。当時はラジオも無く、時報も無い。時計もどれが正しいのか分からなかったと思われる。これは、先蔵にとって、一大痛恨事であった。というのも、年齢制限で、先蔵には最後の受験のチャンスだったのである。

ひらめいたが厚い壁

先蔵は、不屈の精神力があり、苦境に立つとそれをバネにして、新たなチャレンジを始めるといった青年だった。この遅刻事件を契機に挑戦したのが、電気の作用で数百個の時計が同時刻を示す「連続電気時計」だった。発展し続ける鉄道にも郵便にも、必要とされると確信したからである。まさに文明開化の必需品!青年発明家は時代を読み、燃えた!進学を諦め、物理学校の職工として働きながら、夜も眠らず試作に没頭。完成にこぎ着ける。しかし、彼が使用した電池は英化学者の発明したダニエル電池と同じで、電解液をこまめに変えなければパワーが落ちるし、大きくて持ち運びに不便だった。

懐中及び携帯電灯用の屋井乾電池

「もっと使いやすい"乾いた電池"が必要だ!」・先蔵のモノヅクリの心にまたまた火がついた。基礎の勉強をしていない先蔵にとって、この挑戦は苛酷なものだった。電極は何にするか?実験を重ねて辿り着いたのが、亜鉛の筒のマイナス極と、炭素棒によるプラス極だった。電解液は?スタートは、海水あたりからだったと言われている。これはまだ序の口だった。二酸化マンガンに辿り着くまで、また、電解液がマンガンに染み込まないための工夫、電解液を扱いやすくするためにドロドロにするには……などなど。最大の難関は、陽極の炭素棒に電解液を染み込ませない方法を見つけ出すことだった。ほとんどクリアしたのに、炭素棒の微小な穴に電解液が染み込み電池を腐食させてしまう……この問題は、三年近く先蔵を悩ませた。壁は、思わぬ出来事から解決を見る。研究室の机にこぼした水をロウソクのロウが流れていた所だけ弾いている。溶かしたロウで炭素棒を煮て、微小の穴をロウで埋めればいいのだ!世界最初の「乾電池」が、ここに完成した。時に明治二十年(一八八七)、先蔵二十四歳。

特許を取らなかった

昨今、知的財産(権)の問題は数々の話題を呼んでいる。この大発明のその後を見れば、誰しも口惜しい思いに駆られるだろう。当時は特許の重要性が理解されず、また貧しい先蔵には特許申請の費用も無かった。この頃、欧米各地を巡ってきた大倉喜八郎は、先進各国にも乾電池は無かったと証言している。大倉喜八郎は、先蔵と同郷の越後出身の実業家で、大倉財閥の基礎を作った人物である。明治二十四年(一八九一)二十八歳になった先蔵は所帯を持ち、浅草七軒町の長屋に「屋井乾電池合資会社」の看板を掲げた。しかし注文はサッパリ無く、清貧の日々を過ごす。先蔵とその大発明は、時代より少し先を駆けていた、と言えるのだろう。

失意の先蔵に、さらに無念なことが追討ちをかける。明治二十五年(一八九二)、アメリカの「シカゴ万国博覧会」に日本から地震計が出品され、それに先蔵の乾電池が使用された。ところが万博の二年後、先蔵が創ったのと全く同じ乾電池がアメリカから輸入され始めたのである。先蔵は「ドライ・バッテリー」というその商品名そのものも自分が名付けた「乾電池」の直訳だと、大いに憤慨したという。先蔵は、しかし改良を加え続け、その製品は徐々に認められていった。日清・日露戦争を勝利に導くのに、小型で寒冷地でも凍結しない屋井乾電池が大いに威力を発揮する。当時、中国やロシアが使っていた蓄電池は、寒冷地では電解液が凍結して無線が打てなかった。情報戦で、これは決定的な差であったろう。明治、大正、昭和と、近代化を目指す国造りの分野で、屋井先蔵の乾電池は大活躍。宮中茶話会(大正天皇の時)にも招かれ、面目をほどこした。明治という極めてユニークな時代に、越後の一青年が、困窮のなかで苦学しつつ、世界で最初に乾電池を完成させたということは、深い感動を誘う。

平成の屋井青年よ…

今日、乾電池のない生活は考えられまい。その端著を開いたのが先蔵であった。この時代に先駆けた発明家は、昭和二年(一九二七)、六十四歳で永眠する。しかし、そのモノを創り出す歓びは、いつの時代にも受け継がれていくことだろう。そして現在の東京理科大学のキャンパスにも、平成の屋井青年がきっといるに違いない。

この先蔵の活躍は、二月二十八日、テレビ新潟で「エジソンになりそこねた男~乾電池の発明者・屋井先蔵~」として放送された。

(写真上=宮中茶話会出席で正装した屋井先蔵 写真下=懐中及び携帯電灯用の屋井乾電池)

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